「帰国後の生活」

 帰国した彼らには「アカ、洗脳者、大陸帰り」等のレッテルが貼られ、長い間、公安が尾行などしていたため、一部の大企業に席のあった人以外は多くの人が就職が困難だった。

 

 東京に居た金子安治さんは就職先で後で「履歴書」を持ってくるように言われ持参すると、即刻解雇され仕方なく戦後「屑鉄商」からスタートした。また埼玉の鈴木良雄さんも公安に付けられ就職が出来ず「牛乳配達」から人生を再スタートさせてが、この様に帰国後も就職が困難な人たちが多かった。

 

 そんな環境になかで中国で命を助けられた彼らの思は、帰国の56年10月には「常任理事会」を立ち上げ組織活動を開始し、翌57年1月には機関紙『前へ前へ』第一号を発行し、同年9月に「全国大会」を開き「中国帰還者連絡会(中帰連)」を立ち上げた。