【知っていますか?赦しの原点『方正地区日本人公墓』】
1954年8月15日、日本は敗戦を迎えたが、その直前の8月9日、旧ソ連はソ満国境を越え参戦した。しかし、日本軍はそれを知るや住民を守る処か、我先に撤退し日本人開拓民は「棄民」され大混乱に陥いった。そして多くの犠牲・悲劇をもたらし残留孤児や婦人を出した事は知られている。
そんな中でソ満国境付近の開拓民もあらゆる手段で日本を目指し、当時、生体解剖をした731部隊が駐留し日本が支配していたハルビンを目指した。しかし、そのハルビン東方約180キロ(ジャムスとハルビンの中間)の方正(ほうまさ)まで辿り着きながら、寒さと飢え、病気等で約4500人が犠牲になり3日3晩、死体を焼き山の麓に葬った。
【キレイに整備された「中日友好園林」入り口】
その後1963年、風雨にさらされ野ざらしになった白骨の山を、残留婦人の松田ちゑさん(91年帰国)が見つけ「埋葬したい」と地元の方正県に願い出た処、その要望が黒竜江省に更に中央政府まで届いた。そして周恩来が「政府の仕事としてやらせてもらう」と許可し、方正県政府は63年5月『あなたたちも日本軍国主義者の犠牲です。墓碑の建立は人民政府の手でやることにしました』(「方正友好交流の会・会報『星火方正』20号51頁)と建立されたのです。
当時、まだ日中国交回復前の中国も貧しい時代、日本人の習慣や墓を調べ哈爾浜で石を見つけ、ろくな道路もない中で松河江の増水を待ち、方正まで船で運び、丘の上に引き上げ、日本に向けて建ててくれたのです。写真の様に非常に立派な『日本人公墓』です。
「中国政府」が建立してくれた【方正地区日本人公募】
中国農民の命の土地を奪った憎き開拓団のために、それを赦し建立して下さった事に、私は現地に行き心から御礼と感謝の思いであった。
そして、あの文革の時にこの「日本人公墓」も破壊されそうになったが、周恩来の「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」との指示と、地元の皆様の努力で破壊されるずに済んだのでです。
【中国養父母公募】 【藤原長作 記念碑】
その隣には麻山集団自決の『麻山地区日本人公墓』が、また、隣には残留孤児が建てた『中国養父母公墓』が、そして、更に近くには戦後、現地の稲作指導に行き現地の米の収穫を何倍にもし、現地の皆様から神様の様に尊敬されていた岩手県沢内村出身の藤原長作の『記念碑』と記念館もある。
【犠牲者の「名簿石碑」を建立】
引き揚げ途中で亡くなった氏名が判明した250名の氏名を2011年7月25日、この公墓に刻んだ石碑を、地元政府が70万元(840万円)を投じ建立してくれた。しかし、残念ながら反日組織の一部の人が「売国奴」などと主張しペンキを塗ったり批判の声も寄せられたという。
案じていたが、その後、僅か10日でこの「石碑」は撤去・破壊されたのは無念である。暴力を認める訳ではないが、これを一方的には非難することは出来ないと思う。未だに公然と侵略や加害を認めない発言をする日本人たち、被害と言えば自分たちの被害しか考えない日本人、その被害は自ら始めた戦争が原因でありその「責任や原因」を考えない日本人に呆れる。
中国の皆さんは日本の始めた戦争で、何の責任もなく多くの非戦闘市民が日本人の何倍も殺された。「三光作戦、日本軍慰安婦、生体解剖、強制連行・労働・・・」にも関わらず、56年の中国「特別軍事法廷」では一人の死刑も無期判決も出さなかった事を知っているだろか。日本に反省と謝罪の姿勢が見られないなら当然の結果でもあろう。
【受け継ぐ会・中帰連平和記念館】参照
撤去・破壊された事より「建立」してくれた努力を評価・感謝すべきで、これを戒めに反省し、更に謙虚になり信頼関係をつなぐ努力が必要と思う。しかし、多くの日本人は反省もなく反発する人が多いのではと心配である。 メディアがこの「石碑」の建立を伝えなくても撤去だけは伝える姿勢に憤りを感じる。 破壊・撤去された今、この「石碑写真」(中央)は貴重なものとなった。
僅か10日で撤去された「名簿碑」(正面)
「写真提供」大類善啓さん(方正友好交流の会)2011/7
この一角は柵で囲われ『中日友好園林』として、地元の皆様と中国政府の補助で綺麗に整備維持され「日中友好」の原点の場所と言える。 この事実を伝えようと『方正友好交流の会』が運動を続け、毎年、立派な会報『星火方正』を発行している。