◆「中帰連」に関した本を徐々にご紹介します。
藤原さんは軍隊で「およそ人間のすることではない」殺、奪、焼の「三光作戦」の実行者・日本鬼子となり、 作戦・討伐の名の下に直接70人余りの生命を奪った。5年間のシベリア(カザフスタン・カラカンダ)抑留後、撫順戦犯管理所の人道的待遇で「鬼から人間に戻してくれた」と記している。帰国翌日から警察に監視され、結婚後は経済的にも大変な時期もあり転居9回、転職10回を体験した。一時、大阪にも出たが故郷の三瓶山の麓に戻り、古材を使い二人で2年かけて素敵な山小屋風の家を造り、米以外は自給自足の生活をした。地元ではステンドグラス作家としても知られ活躍、お子さんや孫にも恵まれたが、夫人は藤原さんを交通事故で亡くし(享年83歳)、その7ヶ月前には最愛の一人娘の梨華さんをも病で亡くす辛い体験もされている。
中帰連の皆さんが旧ソ連から中ソ国境の「綏芬河」で戦犯として1950年7月17日、969人が中国に戦犯として引き渡され7月21日早朝3時「撫順駅」に到着し「撫順戦犯管理所」に収容された。その彼らの過去の犯罪かから、管理所の生活、寛大待遇、反省・認罪・謝罪、裁判から帰国と、中国側が記憶した帰国までの一連の貴重な「写真記録」である。
病のため病室で「禁固20年」の判決直後、「病につき直ちに釈放」と言い渡された偽満州国国務院総務長官の武部六蔵や当時の看守の皆さんの写真などもある。管理所での生活が如何に寛大であったか、彼らが「鬼から人間に戻った」経緯が写真で解る。 記念館にはこの「映像版である『人道と寛恕』もある。
58年に出版された「復刻版」、冒頭12頁に渡り日本軍が行った虐殺の見るに堪えない写真が載っている。本文は731への特特移扱い、長城の無人区作戦、砲火、堤防決壊、労工狩り、暗殺・・・・・など16人の証言がある。貧乏家で学校に行けず読み書きが出来ず軍でも馬鹿にされた松本国三さん(兵長)は、管理所が心配して帳面や鉛筆、万年筆まで買い与え文字を教えてくれ、中国から手が出せ「嬉れしゅうて涙が出てたまらん」と綴っている。
鵜野さんは自身で直接42名を斬首し中国人を犬猫以下に扱い野犬の餌にさえしたという。殆ど実名で記してあり「菊」つまり天皇の責任も指摘している。彼は処刑を覚悟していたが、56年の「特別軍事法廷」で禁固13年と命を救われ、しかも、シベリアと管理所の計11年が刑期に参入され2年後に帰国した。帰国に際し彼は『きっと正しい人間になります』と誓い中国を離れ、帰国も証言を続けた壮絶な体験と自白である。
国友さんはこの本を3年掛けて書いている。当初は自身の「前半生」を子どもに訴えるためだったという。「戦争時代の小市民、中国の戦場、捕虜となった兵隊、人はどのおゆにして自分を変えられるか、自分の人生を生きる」の5章である。シバリア抑留や管理所の生活も可成り詳細に記してあり、「博物館展示」のプロだった彼は本紙の中に挿絵も描いている。
「中帰連」の多くは59師団が多いが、島根県で出身の鹿田さんは39師団で自身の生い立ちから軍隊生活とその戦闘状況、撫順戦犯管理所の6年、帰国後の生活や証言活動など、自らの人生全てを記録している。2002年の「中帰連」解散後も「山陰中帰連」として支援者と共に活動を続けている。鹿田さんはご健在(14.2月現在)ですが体調を崩し入院中です。
39師団だった稲葉さんが一番訴えてきたことは、敗戦後も武装解除ぜず命令で2600名の仲間と共に残留し、軍閥の閻錫山軍に荷担し3年8ヶ月も八路軍と戦い、その間に560名の戦死者を出したことである。しかし、帰国すると「逃亡兵」扱いで遺族年金も軍人恩給も出なかった。それは途中で逃げ出した上官の澄田睞四郎や今村方策らの「勝手に残った」との証言だった。
59師団の一兵士だった小山さんの告白である。小山さんは「殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くし」の所謂「三光作戦」(中国側の表現を体験し、小麦や綿花、家畜なども大量に略奪した体験を書いてる。そして、小山さんが何時も「証言」していたのは自らの参加した「うさぎ狩り」つまり強制連行である。敗戦後のシベリア体験や管理所で人間を回復するまでなどを証言している。
中帰連の金子さんは帰国後も「アカ、洗脳者」のレッテルを貼られ、公安に尾行され就職できず「屑鉄商」から人生を再スタートさせた。金子さんは2000年の『女性国際戦犯法廷』で性暴力の加害証言をしたが、NHKが「証言部分」をカットし放送され悔しい思いをした。NHKに「公正な報道をお願いします」と圧力を掛けたのが当時官房副長官だった安倍晋太郎現総理だったが、その面会直後に既に完成していたテープの再編集が始まっている。
著者は憲兵であった父と、チチハルの憲兵だった土屋さんが重なったという。多くの拷問・虐殺をした土屋さんの生い立ちから始まり、愛国者の「張恵民一家殺害事件」では、戦後たった独り残された張秋月さんに面会し謝罪している。シベリア抑留から管理所収容など詳細が400頁近くに記してある。それは過ちを再び繰り返さないためである。著者が心血を注いで土屋さんに迫った集大成である。
村一番の貧しい家に生まれ、貧しさから抜けようと軍隊に入り13年間の関東軍憲兵の記録である。彼は一方的に「怪しい」と思えば勝手に逮捕し「焼きゴテや水攻め」など拷問は日常茶飯事であった。彼は直接間接に328人を殺害し、1917人を獄につなぎ731部隊にも「マルタ」をにも送っている。彼も管理所で「鬼から人間」に戻り、罪を許され起訴免除の判決を受け帰国を許され生涯「証言」を続けた。
中帰連の皆さんが中国で何をしたかだけではなく、戦犯管理所でそのような生活をしたかんどを15人の元戦犯たちが書いています。初代会長の藤田茂元中将や、最後の会長であった富永正三、2000年の「国際女性戦犯法廷」で加害証言した鈴木良雄さんなも書いていますが、殆どの方が奇蹟に入ってしまいました。
この本は中帰連の戦犯たちを管理下側の職員(看守)の皆さんの記録です。
一緒に収容された溥儀が「序文」を書いており、最初の孫明斎所長や最後の金源所長、日本語が上手で非常に信頼を受けていた崔仁傑さんや呉浩然さん、また溥儀の改造についていた李福生さん、ソ連から引き渡された「綏芬河」でも立ち会い、その後も管理所で彼らの看護にあたり今もご健在の趙毓英さんな記録を書いている。
中国・山西省太原で元軍医だった湯淺謙さんの証言記録である。湯淺さんは「生体解剖は731だけではない」と自身が体験した潞安陸軍病院での自身が行った「生体解剖」の辛い加害証言を長い間続けてきた。それは自身の懺悔と再び過ちを繰り返さないためにであった。2010年11月に亡くなっている。
憲兵だった三尾さんは「特移扱い」としてマルタを731部隊にも送っていた。97年10月731部隊などの被害者・遺族による賠償裁判で、三尾さんは加害者として東京地裁でその証言に立っている。本書には関東軍憲兵の「特移扱輸送命令」資料や、三尾さんが周恩来と握手している写真なども載っている。シベリア、撫順体験や中帰連の「証言活動」も最後まで続けた。