「管理所の生活」
1951年7月、シベリアから貨車にギュー詰めにされた969人は「ダモイ(帰国)」と騙されて中ソ国境の「綏芬河(すいふんが)」で中国側に引き渡されました。そこには背もたれにレースがかかった客車が待っていました。そして、看護婦や医師も添乗し「体調の悪い人は居ないか?」と車内を回り、更に暖かい食事を用意されていました。ソ連でギュウヅメめにされた貨車との違う待遇に彼らはまず驚いたと言います。
やがて行き着いた先が「撫順戦犯管理所」で、駅から管理所に向かう隊列の両側には中国兵が数メート間隔に銃を「隊列の外に向け」て警備をしていました。これは中国市民からの攻撃から戦犯を守るためであった事を後日知りました。
管理所には「戦犯規定」の貼り紙があり、彼らは「なぜ俺たちが戦犯なのか!上官の命令を守っただけ」と反抗ましたが、自身の中国での過去の行動を良く考えるようにと諭された。
撫順戦犯管理所(一部は太原)に収容された彼らは、戦犯の扱いに「上管の命令に従っただけで戦犯ではない!」と強く抗議し反抗していました。しかし、内心では自らの過去を振り返ると彼らの多くは「処刑されるでのは?」と疑心暗鬼に落ち入っていた人も少なくなかったのです。
しかし、管理所の扱いは非常に人道的で周恩来は「罵倒も殴打もしてはならない」と厳命し何の復讐も制裁も強制労働も強制習もありませんでした。そして、中国人がコウリャン飯など一日2食しか食べられない状況下で、彼らには白米を食べさせ肉野菜など十二分に与えられ、当時の中国人一般家庭の数家族分が彼らの一人1食に与えられ、当初、彼らは「最後の晩餐では?」と疑心暗鬼の人たちもいました。
しかし、食べ物だけではなく健康診断も実施され、図書掛かったいた鍵も外され図書室やクラブ活動も許され、運動会や文化活動なども自主的に開催されその写真や映像もあります。また、何もしないと身体がなまると、自ら労働を申し出て瓦生産(希望者だけ)などもしています。
その人道的対応は何時までも変わらず、それは『復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。日本人の習慣を守り人道的扱いをするように、20年後には解る』との周恩来の指示でした。しかし、職員は納得せできず戦犯たちのアルマイトの食器を足で蹴って運んだことや、ご飯の中にふけを落としたり反感を持っていました。しかし、周恩来は戦犯たちのみならず、職員をも教育し信頼関係を取り戻すよう諭し、やがて、徐々に職員との信頼関係が芽生え徐々に自らの過去を振り向きやがて「忍罪」に至って行きました。